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ちらくism

野沢和弘コラム

[ プロフィール ]
野沢和弘/千楽chi-raku 副理事長 静岡県熱海市出身。1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞入社。いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などを報道する。論説委員(社会保障担当)を11年間務め、2019年10月退社。現在は植草学園大学副学長・教授、一般社団法人スローコミュニケーション代表、東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」主任講師、社会保障審議会障害者部会委員、障害者政策委員会委員なども務める。
重度の知的障害(自閉症)の子がいる。浦安市に住んでいる。
主な著書に「スローコミュニケーション~わかりやすい文章、わかちあう文化」(スローコミュニケーション出版)、「なんとなくは、生きられない。」「障害者のリアル×東大生のリアル」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」「殺さないで~児童虐待という犯罪」(中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)、「福祉を食う~虐待される障害者たち」(毎日新聞社)「なぜ人は虐待するのか」(Sプランニング)など。
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「当事者」にしかできないこと

どれだけ公的な福祉サービスや制度を作っても手が届かないものがある。孤独や疎外に心を侵食され、声を上げることすらできない絶望を公的な制度はなかなか救えない。だからといって家族やご近所の緊密な支え合いを再構築できるようにも思えない。精神医療や福祉でピアカウンセリング、ピアサポート、「当事者研究」などと呼ばれる当事者による活動がある。プロの支援者にはない可能性がそこにある。

孤独な生き物

「生い立ち等に逆境体験があると人を信じる能力が奪われる。困ってるくせにツッパったり、寂しいくせに、人を遠ざける。心が既に傷だらけで、小さな傷すら耐えられず、傷つかない様に孤独を選ぶ。すると今度は自分の声が自分を苦しめる。俺は『頭の中の考えは真実なんかじゃない』と気づかされて救われた」

 

絶望の闇の深さを味わった人にしか見えない心の風景というものがある。苦しさの中に力強い光を感じさせる言葉が並んでいる高知東生さんのツイッターにそう思う。フォロワーは約3万人。孤独な心を鼓舞されている人も多いのではないか。

 どこか昭和の臭いを感じせる野性味ある俳優として活躍しながら、覚醒剤取締法違反で逮捕され有罪判決を受けたのが高知さんだ。現在は薬物依存症から回復した経験を語り、依存症の偏見をなくし理解を広める活動をしている。

 高知さんにインタビューする機会を得たのは、まだ残暑の気配が強かった9月下旬のことだ。長身の背筋をピンと伸ばし、少し緊張した顔で現れた。まだ啓発活動に慣れていないのだろうと思った。

 甲子園の常連・明徳義塾高校の野球部員だったころ母が自殺した。天涯孤独になり、寂しさを引っ提げて東京にやってきたという。夜の街で覚えた薬物だったが、芸能界で活躍した17年間は手を付けなかった。ファンの熱いまなざしを浴び、新しいつながりが次々にできた。ドラマもCMもお金を出してくれるクライアントがいる。打ち込めるものがあり、自己肯定感に満たされ、仕事や関係者に対する責任感もあった。

 薬に再び手を染めたのは、仕事が下り坂になり、ビジネスや人間関係でトラブルが続いたころだった。若いころの経験からいつでもやめられると高をくくっていたが、自分を保つことができなかった。

 依存症という疾患の社会的な本質はこういうところにある。自分自身を支えている何かをなくし、空洞になった心に忍び込むように「依存」が根を下ろしていく。人間はもともと孤立や疎外に弱い社会的な生き物だ。自立しているように見える人も、見えないところでいろんなものに依存している。調子のよいときには自分も気づかないものだ。

このままでは死んでしまう

 高知さんと私をつないでくれたのは田中紀子さんという女性だ。インタビュー当日も緊張した様子の高知さんを先導するようにやってきた。父親も夫もギャンブル依存症で自らも依存症から回復した経験のある「当事者」である。

 執行猶予付き有罪判決を受けた高知さんがツイッターで何か書くと批判が殺到し炎上していたころ、田中さんだけは高知さんを擁護した。道徳心や根性がないから依存症になるのではない。不安や緊張を和らげたり、嫌なことを忘れたりするために、薬などの摂取を繰り返しているうちに脳の回路が変化し、自分の意思ではやめられない状態になってしまうのが依存症という疾患だ。

「すみません。放っておいてください。落ち着いたら連絡します」と断る高知さんを強引に連れ出し、啓発活動のシンボルにしようとしたのが田中さんだ。何度も大げんかになったが、田中さんは1ミリも引こうとはしなかった。

〈このままでは高知さんが死んでしまう〉

 ギャンブル依存の地獄から這い上がってきた田中さんにはそうした確信があった。頑なに背を向ける高知さんにかつての自分自身の孤独を見たからである。実際、依存症に陥った人の自殺率は著しく高い。

「外に出たら石を投げられるぞ」

「マスコミに隠し撮りされるぞ」

 そう言われてひきこもっていた高知さんの精神は限界だった。何度もベランダまで行ったが飛び降りる勇気もなかった。田中さんと出会わなかったら本当に破滅していたかもしれない。

 SOSを自ら発し、相談の電話をかけてくる人を助けることはある意味で容易だ。もしも救いを求めている人に行政機関が対応しなかったら厳しい批判は免れないだろう。

 一方、声を上げない人、こちらから手を差し伸べても拒む人を支援するのは難しい。心の奥にある本人も気づかない叫び声を聞くことができるのは、自らそのような状況に追い込まれた人だけかもしれない。どれだけ拒まれても怒鳴られても、手を伸ばして地獄から救い上げるようなことができるのは、自分もそうやって救い出された経験のある人だけではないのか。

 高知さんと田中さんの出会いを聞いているとそう思えてくる。

公的制度にはないもの

 国や自治体からの補助金で運営されている公的な福祉事業では、資格要件というものが重視される。社会福祉士、精神福祉士、保育士、介護福祉士などの国家資格を持った職員がいないと運営を認められない事業は多い。看護師や作業療法士がいると補助金に上乗せして加算が付くものがたくさんある。

 福祉に関する専門知識や支援スキルを持った人がいることが、公的な補助金を与えるに足る信用を担保するものとしてみなされている。そうでなければ補助金目当ての悪質なビジネスに利用されてしまうと思われているのだろうか。

 一方で、公的な制度による支援の場合、法的な権限と規制に縛られ、個人情報保護の義務が過剰に課され、文書の作成と保管、監督機関である行政への報告とチェックなどの事務的負担が重くのしかかる。

 踏み込んでいかなければ救えない人がいても、権限を踏み外すリスクと煩雑な手続きが足かせとなって先に進めない。あっという間に機能不全に陥り、表層的で形式的な仕事しかしなくなる公的機関や民間法人を嫌というほど見てきた。

 国家資格があるわけでもなく、権限やお金がなくても、当事者はひるまずに踏み込んだ支援をする。そうしなければ救えないことを知っているからだ。そうやって自分自身が救われたからでもある。

 高知さんのツイッターに「仲間」「一期一会」という言葉が登場するのを見ると、公的制度や有資格者による支援にはない、当事者ならではの信頼や迫真性を感じる。

 

「執行猶予があけて縁が切れていた人から連絡を頂いたり、著書を読んでくれたりと切れていた糸が繋がり嬉しい。仕事での出会いは特に『いつでもまた会える』って思っていてもなかなか会えない。心の中に生きている時間の方がずっと長い。一期一会大事だなとすべての糸が一度途切れたからこそ思える」「大きな困難が目の前にあるとどこから手を付けたらよいか分からなくなる。すると恐怖という感情が頭の中を駆け巡り、物事を冷静に見る目が曇ってしまう。俺の経験上、大きな困難にはやみくもに手を付けずに、まずは頼りになる仲間を探し、問題を分割したほうが良い。そしてできることから解決していく」

(いずれも高知さんのツイッターから)